萩の寺について
集う人々
正岡子規の句碑

正岡 子規(まさおか しき)
慶応3年9月17日生まれ(1867年9月17日〜1902年9月19日)。
俳人・歌人・国語学研究家。本名は常規(つねのり)。
俳句・短歌・新体詩・小説・評論・随筆など多方面に渡り創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした、明治時代を代表する文学者の一人です。

硯石の形をして、子規の筆跡を正しく模刻したものです。
正岡子規と俳句のメッカ・萩の寺
昭和9年甲戌年3月建立
硯石の形をして、子規の筆跡を正しく模刻したものです。
正岡子規は、明治二十八年十月日清戦争従軍記者として、郷里松山を離れ、大阪・京都・奈良に吟杖を曵きこの句を詠みました。
彼の句集「寒山落木」に「僧もなし 山門閉じて萩の花」につづいてこの句があります。ちなみにこの句碑は子規の筆蹟を正しく模刻したものです。
「ほろほろと石に こぼれぬ萩の露 子規」
日清戦争の従軍記者として中国へ渡った子規は、帰国の船中で吐血、故郷松山で療養します。この碑の句は、その句集『寒山落木』中にあり、一時回復した子規が東京に戻る途中、当時中津にあった当山に立ち寄り詠んだものです。
その後も病は良くならず、明治35年東京に36歳で亡くなりました。死の前日には絶筆となった有名な句を残しています。
「をとといのへちまの水もとらざりき」
「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」(当山に本句の銅板短冊あり)
「糸瓜咲て痰のつまりし佛かな」(絶句)
化粧水がわりに使われるヘチマ水は、旧暦の8月15日、中秋の名月の晩にとったものは薬になるという言い伝えがありました。子規がこれら三句を詠んだのは、その2日後でした。この絶筆から彼の命日は糸瓜忌とも呼ばれるようになりました。
萩の寺では、弟子である高浜虚子、青木月斗など壮々たる俳人たちの集う句会が催され、俳句のメッカとして重要な役割を果たしてきました。子規をはじめとした色紙、短冊、屏風に書かれた数多くの奉納句が当山に伝わる所以です。そして9月の萩まつり道了祭には、「子規忌ヘチマ供養」と「萩の四季俳句会」が開催され俳句を愛する多くの人が、今も吟杖を曳いて来山いただいております。