萩の寺について
御本尊
元隠岐国 あごなし地蔵大菩薩三尊像
承和5年(838) 小野篁 正作
隠岐島のあごなし地蔵尊の遷座
廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる明治2年、隠岐島の伴桂寺が廃仏に遭いました。
伴桂寺の最後の住職となった聯山祖芳(れんざんそほう)大和尚は、当時の当院住職大雄義寧禅師の弟子でした。伽藍、仏像、経巻、什宝を悉く焼却破棄する未曽有の暴挙に遭った祖芳和尚は、千年にわたって全国的に厚い信仰を集めていた小野篁(おののたかむら)卿正作のあごなし地蔵尊像を命を賭してお護りし、師寮寺である東光院へ逃げてきたのです。
この霊像の再興を図る祖芳和尚は、義寧禅師に当山での永世護持をこいねがい、尽には許されて我が国最古級のこの由緒探き地蔵尊像は、当山に連座されることとなりました。 そこで当山は、明治4年9月、この引き取ったあごなし地蔵尊像を安置する堂字の建立を大阪府に申請しますが、新築は不許可となります。しかし、義寧の猛烈な護法運動の結果、翌年正月に申請した旧川崎東照宮の本地仇と本地堂の引取りが認められた。
そこで急遽本地堂をその地蔵堂として上棟することとなり、明治5年(1872)5月、鴻池善右衛門をはじめとする大阪の豪商たち、伴桂寺祖芳、東照宮関係者、数多くの講中各位が列するなか、あごなし地蔵尊は艱難辛苦の末、当山に永代鎮座されたのです。この間の経緯は、伝来する古文書と地蔵堂移築落慶の棟札により考証されます。
秘仏あごなし地蔵尊のいわれを、伴桂寺祖芳が『あごなし地蔵尊伝来本縁起(でんらいほんえんぎ)』に書き記しています。
それによると、平安初期の参議で歌人としても名高い小野篁卿が承和5年(838)12月、隠岐の島へ流されたときに阿古という農夫が身の回りの世話をしました。ところがこの阿古は歯の病気に大層苦しんでいたので、世話になったお礼にと、篁卿は代受苦の仏である地蔵菩薩を刻んでこれを授けました。阿古が信心をこらして祈願するとたちまち病が平癒し、卿も程なく都へ召し返されたので、奇端は偏にこの地蔵尊の加護したまうところと、島民の信仰を集めました。
その後、仏像は島の伴桂寺にまつられ「阿古直し」がなまって尽には、「あごなし地蔵」と呼称されるに至ったといわれています。