萩の寺について
由緒と歴史
川崎東照宮の承継と道了大権現の再興
徳川家康をまつる東照宮は、日光市にあるのが有名ですが、各地にも分霊がまつられました。大阪でも幕府の大阪支配の拠点とするため、家康の死の翌年である元和3年(1617)4月、家康の外孫であり大坂城主の松平忠明が、天満川崎の地(現在の造幣局西側)に日光東照宮のそれに勝るとも劣らない社殿を造営しました。これが「川崎東照宮」です。かつて家康が茶席に出掛け庭の雅趣を楽しんだとされる織田有楽斎の別荘地を選び、勧請されました。以後、毎年4月と9月の17日に「権現まつり」が催され、「浪花随一の紋日(特別な日」といわれるほどにぎわいました。
しかし、明治6年(1873)、明治維新後の反徳川、豊臣再興の風潮で廃社となり、その後どうなったかは大阪の歴史において空白となっていました。
ところが、昭和57年当山経蔵から発見された文書や絵図により、川崎東照宮が廃社直前に当山に遷座されていたことが判明しました。現地蔵堂が東照宮本地堂「瑠璃殿」であり、その際文書類と一緒に発見された薬師如来が御本地仏であることがわかったのです。
それらの文書には、今は廃絶した別当寺・建国寺の名跡を継いだ当山八世大雄義寧禅師による、艱難辛苦の護法運動の結果、完遂された護持であったことが克明に記録されています。当山の寺紋が東照宮葵紋となった所以です。
明治維新まで250年間続いた川崎東照宮「権現まつり」は、明治6年のその廃社後も天満六組の応援をえて、明治40年まで続けられます。
その後、東照宮を動座した由緒をもつ当山は、この権現まつりを「萩まつり道了祭」として承継し現在にいたっています。東照大権現と道了大権現の符合です。
祭神の道了大権現は、名を妙覚と号し、修験道の奥義を極め、神変自在の神力を現した室町時代の禅僧で、小田原の大雄山最乗寺の開山・了庵慧明(りょうあんえみょう)禅師に随身していましたが、応永18年(1411)了庵禅師遷化の翌日、山門守護を誓願、天狗に化身して神籍に加えられた仏様です。関東地方では「小田原の道了さん」と呼ばれ、畏敬され信仰されています。
天正18年(1590)、豊臣秀吉公が小田原征伐の陣中にて夢告を受け、「両翼脱落」の奇瑞を得たことから、遠く大阪の発展を願って大雄山最乗寺より勧請されました。以来、「道了祭」は大阪の名物とされ、火神商神・火盗除災・心願成就の権現様として多くの善男善女の帰崇をお受けになっています。
おまつりしている道了堂は、寺伝では小田原藩の寄進で大阪市内玉江橋付近に建てられたものを移築したもので、『摂津名所圖繪檜大成』に「道了権現祠 右同所東小田原御蔵やしき内にあり霊験いやちこなりとて詣人絶えることなし」という記事がそれに該当し、明治36年に中津本院を経て、豊中の現在地に移築されました。平成6年に本格的解体修理工事が行われ、その際、天和4年(1684)の修理札が発見されました。
地蔵堂板戸の将軍家葵紋
旧川崎東照宮本地堂である当山のあごなし地蔵堂の扉には、葵紋が付されています。
旧川崎東照宮の石灯籠・石碑・鳳輦庫
現在、川崎東照宮の遺構は当山の本地堂の他、学問の神様で知られる菅原道真公を祀る大阪天満宮の境内に石灯籠、鳳輦庫が移築されています。星合の池奥にある鳳輦庫の屋根瓦には葵の御紋が見られます。
また、大阪市北区の滝川小学校の正門横に、かつてここに東照宮があったことを示す石碑が建てられています。
権現まつり(花暦浪花自慢より)
川崎東照宮の祭礼「権現まつり」は毎年4月と9月の17日に執行されましたが、とりわけ家康公の忌日である4月17日は、一般町民も参詣を許されたため、「浪速随一の紋日」と称されるほど盛大でした。大阪三郷の各戸の軒先には15日から5日間提灯を献じ、大阪春秋の風物詩でした。含粋亭芳豊画の錦絵「花暦浪花自慢」の中の「権現まつり」はその様子を描いたもので、延々と連なる行列に、その盛況ぶりがうかがえます。現在の造幣局桜の通り抜けの源流です。
秀吉公勧請の道了大権現尊像
天正18年(1590)、豊臣秀吉公が小田原征伐の陣中にて夢告を受け、「両翼脱落」の奇瑞を得たことから、遠く大阪の発展を願って大雄山最乗寺より勧請されました。