萩の寺について
由緒と歴史
奈良時代、行基菩薩による草創
行基のこころを今に伝える萩の花
日本人の美と心を象徴する「萩」は、秋の七草の筆頭として知られていますが、行基ゆかりの草花でもあります。その名前の由来は「生え木」に由来し、古来から生命力の強さや復活を象徴します。すなわち再生を意味し、そこに先亡の霊への想いを表わす供花の源流がかいま見られます。
もと当山があった豊崎あたりは、古くから死人が出ると淀川河畔に捨ててしまう風習があり、「浜の墓」とも呼ばれていました。のちに行基菩薩がこの地を訪れたとき、浜に風葬されている光景を見て、民衆に我国で初めて火葬の方法を伝授しました。天平7年(735)、行基68歳の秋のことといいます。
行基菩薩は荼毘に付した死者の霊をなぐさめるため、自ら一体の薬師如来像を造り、その仏前に淀川水系に群生する萩を手折り供えました。それを縁に人々の浄財で薬師堂を建立したのが東光院の始まりです。
以来、「行基菩薩のこころ」として連綿と守り継がれた萩の花は、四苦八苦の人生を闘い抜く生命力の強さと、貧しく弱い人の心も、和合し合力することによって、大輪の花にも優る雄大なスケールの美と力が持てることを訴えつづけてきました。その伝統は今も萩とともに息づいています。