萩の寺について
由緒と歴史
文化文政期の禅風による中興
中世では、御本堂の呼称「薬師堂」が寺号となり、宗派を越えて善男善女の崇敬を受けましたが、延宝9年(1681)相州(今の神奈川県)功雲寺の霊全和尚が来住してはじめて、曹洞宗籍に入り、仏日山吉祥林東光院と称するようになりました。
以後、住僧十余員を数えたましが、約130年を経た文化年間(1804〜1818年)に「大阪十人両替」 の殿村平右衛門(米平)と中原庄兵衛(鴻庄)の浄財寄進を受けて、彌天一州禅師(1768〜1819)が伽藍を再興しました。鳥撤図をみると堂々たる構えの伽藍が広い境内に幾棟もそびえています。
一州禅師は狭い宗乗に立たず、広い視野から大阪の仏法を挙揚されました。当時は、特に薬師信仰が盛んで、行基菩薩の信仰と相まって、一州禅師が中心となり、各寺院が与して大阪の聖地巡拝の行をすることが興り、当山もその中核として大いに信仰を集めました。
彌天一州禅師自筆 東光院中興由緒書
当山再建の経緯とその造営成就の功とを述べ、古聖が樹下石上に修行されたのに比べ、再建なった堂宇の美室に在る身を恐縮して、以後、末永く当山が衰退することなく護持されんことを祈念するものです。