大乗会のことば

花のこころ

「花の心で」

萩の寺住職村山廣甫

私の住職地である東光院は、古来より通称を「萩の寺」として一般の人々に愛され親しまれ、現在は新西国三十三カ所の第十二番霊場に推載されています。

私がこのお寺に赴任したとき、「戦時中に、“イモ畑にしろ”と近隣に非難されても、萩を守り続けてきました」という誇らし気な信者の方々の声を聞いて驚いたものでした。さらに、寺僧の中には、その気概を貫いて餓死した人もあったと知ったとき、驚きはさらに深刻さを増しました。

まゐり来(き)て
袖(そで)ぬらしけ里(り)
はぎのてら
波(は)な野(の)に余(あま)る
露(つゆ)の恵(めぐ)みに

霊場萩の寺の御詠歌です。

ここでは、“萩の花”こそ、このお寺のご本尊ですよと詠じられています。

“萩の花”は、古来、日本人の美意識を代表する花として、“秋の七草”の筆頭にあげられ、『万葉集』では、秋の部の三分の二が“萩の花”を詠んだ歌で占められています。生命力の強さ・復活を意味する花として、また、その集合・群生の美を命(いのち)として、別名鹿鳴(しかなき)草(ぐさ)や鹿妻(しかつま)草(ぐさ)とも呼ばれ、後世には、明治の文明開化を象徴する“鹿鳴館(ろくめいかん)”の命名にも、日本人の美と心の発露として登場しています。

当山を訪問された大本山総持寺(束京・鶴見)の佐藤俊明老師は、

小さな淋しい萩の花も
群生すれば目を奪う美を放つ
弱くて愚かな人間も
三人寄れば文殊さま
群生の萩の中の東光院
大乗会の護教に栄える萩の寺

と詩われました。

萩の花が、今も昔も、日本人の美意識を呼び起こして、その心に訴え続ける存在であることに変わりありません。

ところで、私は二十六歳のときから、このお寺の萩の植栽に携わってきました。おかげさまで今では、戦時中に寺僧たちが必死で萩の花を守った真意を正しく理解することができるようになりました。

東光院は、「今を去る天平七年(七三五年)に、行基菩薩がわが国最初の民衆火葬を執り行われた際、その荼毘(だび)に付された死者の霊(みたま)を慰(なぐさ)めるため、一体の薬師如来を造立し、そのご霊前に当時淀川水系に群生していた萩の花を手折って仏の供花としてお供えされた」という『建立縁起』を持つお寺です。

したがって、この由緒ある萩の花を守らねばならないという使命感があったことは否めないでしょう。しかし、その背後には、さらに自分が死を賭してまでという止むに止まれぬ気持ちがあったのです。

この止むに止まれぬ気持ちこそ、永い永い年月の間、萩の花を守り続けてきた“仏の籬(まがき)(垣根)〟であったと思われます。

夏(げ)書(が)きする
仏籬(ぶつり)の萩の
小筆かな

二月堂

歴代先人たちの萩作りに際しての艱難(かんなん)辛苦(しんく)を想うとき、先人たちがこの花に託した“願い”や“思い”が伝わってきます。その願いや思いを知ったとき、その心を相続して萩の花を守り育てていこうと、私の先輩たちも、戦時中の食糧難の時代において、汗して萩の畑作りにいそしんだのです。その姿は当時の人に、ドン・キホーテ、あるいは、それ以上の愚か者と映ったかもしれません。ではそれほどまでして、萩の花を守らせた先人たちの“願い”や“思い”とは一体何だったのでしょうか。

毎年、勤労感謝の日である十一月二十三日に行われる萩刈りの後、四月下旬につくしのような芽を出すまでの間、萩は切り株だけになってしまっていて、訪れる参詣者も「萩は何処にあるのですか?」と尋ねられるほど、寒々とした情景が続きます。秋のお彼岸のころに見せるうねりのような見事な萩の群生を知る人にとっては、予想もつかないことです。

しかし、確かに地中でその根は生きていて、次の開花を準備しているわけですから、冬眠のときお腹がすかないように、寒肥をやらねばなりません。また、この間に窮屈になった株は分けてやり、成長しやすくしてやります。芽が出てくると害虫がつかないよう、さらに発育のよいようにと肥料を入れたり、雑草を採ってやったりします。

まことに萩の発育は目覚ましく、五月には大人の腰までの高さに伸びたかと思うと、七月にはもう私の背丈を越すほどになっています。大宮人(おおみやびと)が“生(は)え木(ぎ)”と呼んで、この萩に生命の復活を見たのも、なるほどとうなづけるのです。

六月の梅雨は天の恵みですが、夏の間の水やりは、萩を作る人にとっては、毎日がたいへんな重労働となります。何しろ三千本もあるのですから…。

九月までの一年間に、除草はいうに及ばず、害虫の駆除をはじめ薬剤の散布、人間や動物からの被害から守ってやることなど、萩を咲かせる上での心配りは枚挙にいとまのないほどたくさんあります。このような、“仏籬(ぶつり)”に守られた萩は、やがて三メートルにも成長して、秋のお彼岸には、芭蕉の詠じた「白露をこぼさぬ萩のうねりかな」の風情を、私たちの目の前に展開してくれるのです。もちろん毎年萩の枝ぶりは異なるので、咲いた萩を風情あらしめるよう、専門の庭師による作庭も必要となります。このように、作(さ)務(む)(仏の願いを作(な)し務(つと)めること)を二十五年も不断に続けていると、いつの間にか萩の心が私の心に自然と伝わってくるのです。

「水がないので喉が渇いた」「お腹が減った肥料がほしい」「暑い、寒い、どこか、移りたい」「害虫や鳥がついばんで、とても痛い!」などと、萩は決して言いません。しかし、この萩が秋には必ず咲くことを信じ、咲く以上は立派に咲かせたいと念ずるとき、おのずと萩のこれらの願いや思いと自分の願いや思いが同一となり、その気持ちを推し量った行動をとらざるを得なくなります。作る人も作られる花も、同根の生命ある存在であることを痛切に感じるようになるのです。

私の赴任したころ、台風が何度もやって来ました。そのたびごとに、私は雨の中をずぶぬれになりながら、萩のために杭を打って廻ったことを覚えています。萩も私も同じ生命ある存在です。しかも、先人たちは、もっとたいへんな状況に置かれたときも、この萩を守ってこられた……。だから今、ここに萩がある――そのように考えたとき、止むに止まれずひとりでに体が動いていたのです。

萩の気持ち――言い換えれば、その“願い”や“思い”を推し量って、それに応えて行こうと努力するとき、今までこの萩を守ってこられた先人たちへの感謝の念が自ずと湧いてきます。また、それは必然的に現在の自分の努力の足りなさに対する反省と、報恩のまことを捧げる機会をもたらしてくれるのです。

東光院にとって、萩の栽培は、ただ単に花を植えて咲かせようというだけでなくこのように「花の心」を知った先人たちの願いや思いを嫡々(てきてき)相承(そうじょう)した仏作仏(ぶっさぶつ)行(ぎょう)そのものでした。それはご先祖をおまつりして、それを通して仏に出会うことと何ら変わるところのない尊い仏の修行だったのです。

ご先祖さまへの願いや思いを知った自分自身の「感謝」に始まり、自己の日送り所行に対する「反省」と、ご先祖さま、ひいては永遠の生命である仏さまのご恩に報いようとする「報恩」行が、ご先祖をおまつりしていく上での実践徳目であるなら、まさに、この何百年も経た萩を栽培していくことの中に、仏のいのちそのものが存在していたのです。物言わぬ花の心を知った仏作仏行―――これこそ、戦時中の寺僧が死を賭してまでこの萩を守り抜いた理由でした。しかも、萩の花は、今も昔も日本人の美意識を代表しています。この東光院の萩は、周囲をビルが接近して、決してよい自然環境とはいえない市街地の中で、先人たちの願いや思いを相続した善意の輪に護られて、その変わらぬ群生の美を今に伝えているのです。

本書では、ご先祖さまをまつるためのいろいろな道標を印しました。どれをとっても不合理なものはありません。死後の来世は、“ある”か“ない”かでなく、“信じる”か“信じない”かが大切なのです。信仰とはそういうものです。

どうぞ、勇気を奮って、信じて、このご先祖をまつる先人たちの深い智恵を相続していっていただければ幸いです。
合掌
萩の寺事務局拝

降誕会・花まつり

お釈迦さまご生誕の地は、インドの北辺、ヒマラヤのふもとカピラバストゥです。
父はスッドゥダ­ナ国王であり、母の名はマーヤー夫人と申します。
マーヤー夫人は懐妊されて、隣国の実家コーリー城へ帰る途中お疲れになり、しばし休まれたルンビニーの花園で産気づかれ、光り輝く太子がお生まれになりました。
紀元前5世紀の4月8日の朝まだきの事と仏典は伝えています。

そこには色鮮やかな小鳥たちが囀り、アソカ≪無憂樹≫の花が咲き乱れ、そのあまりの美しさ、香りのよさに、マーヤー夫人はその一枝を折ろうとなさいました。
その時急に産気づかれたのです。

過って35年前、私がお参りさせていただいた、アショカ王柱の建つ≪1895年英国のアレキサンダーカニンガム卿によって発見された≫ネパール王国・ルンビニーでの、マーヤー夫人堂内に安置された尊いお姿は、まさにこの瞬間を写し出したもので、強い感動を覚えました。

国王は大変に喜ばれこのみどり児は「シッダルタ」と命名されました。
お生まれになったまさにその時、シッダルタ太子は、東西・南北・上下の六方に七歩ずつ歩まれ≪地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上という、迷いと苦しみの六道をのり越え、悟りの世界に踏み込むことを意味する≫、右手は天を≪上求菩提-自らは悟りを求める≫、左手は地を指して≪下化衆生-ひろく大衆の救済を願うことを表す≫、「天上天下唯我独尊」と叫ばれました。
後世に造像される菩薩道を象徴する有名な誕生仏のお姿です。

私の書斎には、1974年小生31歳のとき、このマーヤー夫人堂での般若心経の3辺読誦ののち、眉目秀麗な高位のチベット僧より頂いた極彩色の釈尊誕生画が掲げられています。
今も私のお葬儀させていただいた方の満中陰には、この記念すべき仏画のレプリカを霊前にお供えするのを例としています。

このシッダルタ太子こそ、後にお悟りを開かれ、釈尊と仰がれて、世界宗教の一たる「仏教」の開祖となられたお方です。
4月8日の花まつりでは、ルンビニーの花園を模した花御堂を白象に乗せ、そこに誕生仏を安座して、降誕の時、空から竜王がお祝いの甘露の雨を降らせたという伝説にならって、その誕生仏に甘茶を注ぎ、嬉々としてそのご誕生をお祝いするのです。
合掌
萩の寺事務局拝